2013年5月31日(金) 8:23
八尾のことを話そうD

写真は、志紀にある左上が西弓削神社、右上が東弓削神社で、祭神はともに、ニギハヤヒノミコトとウマシマジノミコトで、物部の祖神を祭っています。下が曙川にある由義神社で、祭神はスサノオノミコトです。

 外交面を担った蘇我氏と聖徳太子の連合軍が、物部氏と仏教の受容を巡って河内の地で争い、物部氏が敗れ、更に持統天皇の時代に、藤原不比等によって物部氏は歴史の上から抹殺されてしまったのです。若し勝っていれば河内が成都になる二度目の機会でした。

 物部守屋と聖徳太子が敵対する破目になったのですが、前回申し上げたとおり、聖徳太子の生母は八尾で育っておられ、聖徳太子ゆかりの寺院や史跡も八尾に多くあり、二人の対立は八尾の人間にとって複雑な気分です。

 物部一族に弓削氏がいます。弓を削るのを業としていて河内に住んでいました。その、弓削氏の出である弓削道鏡の時代に第3回目の成都となるチャンスが巡ってきました。