2012年1月22日(日) 22:08
学校給食忌避

私の子供時代、保育所は弁当持参でした。毎日の弁当に母親の愛情を感じていました。小学校に入学し学校給食に変わり、一年時は六年生のお兄さん、お姉さんたちが教室までやってきてくれて、運搬・配膳の用意をしてくれていました。上級生に対する憧れ・畏敬を感じていました。私の学年が六年生になると、順送りで一年生の教室に出向き、給食の用意をしました。まつわりついてくる一年生をあやしながら、うまくかわしながら用意していました。

 農家のある親友は給食でお肉が出ると、『わあー、肉だ、肉だ、肉が食べれる』といつもとても喜んでいました。自宅では自給自足の野菜類をいつも食べていたようです。

 厳しい担任の先生の時には、給食に好き嫌いがあると、休憩時間がつぶれてでも無理矢理に食べさせられていました。ですから、子供どうしでうまく助けあって、嫌いなおかずをこっそりと食べてやり、校庭に出て一緒に遊んでいました。給食でも子どもの間に知恵・助け合い・かばいあいが存在していました。

 今日の「産経抄」と「主張」を読んで驚いてしまいました。東京の小学校の中には、放射能汚染への過剰反応から、保護者が学校給食を忌避し、弁当を持参させている者がいると言うのです。これぞ、まさしくミーイズムです。子供の安全面を心配する親心が分からないでもありません。しかし、この現象は今時の過剰なる個人主義の象徴でしょう。

 公共の場で、友達・仲間とわかちあって同じものを感謝して戴く体験をさせることはすごく大切です。おいしい、おいしくないは二の次です。過剰な親の反応がいかに子供の成長を妨げているかに気付くべきです。

 「子供を守ってやれるのは親しかいない」この論理をどの状況・どのケースで適用させるかの目測を誤ってはなりません。

 学校現場にいる私の体験上、この論理を保護者が使うのは、無理難題をねじこんだり、我がまま・身勝手な主張をふりかざすケースが圧倒的に多いのです。

 学校現場はやはり、段々と難しくなってきています。今日の記事に愕然としてしまいました。