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 国民の怠慢ではなかろうか?  ikekazu  2021年7月26日(月) 10:57
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 今日本は大きな事案に直面している、いや戦っているといったほうが合っているかも知れない。一つはコロナ禍、もう一つは東京五輪対策である。間違えれば取り返しのつかないことになる大きな事案。にも関わらず、今の政治の世界を見れば、正に「政局」そのもの。どこそこの選挙区の候補者選定で、分裂選挙になるかも知れない云々。もう選挙モ−ドだ。

 半年ほど前新聞に載ったものの記事を呼び戻している。それは仏文学者の話であった。「私の父は、今の自民党はなってない、某議員はけしからん、あの政策はおかしい等々、毎日のように自民党の悪口を言っていました。しかし、選挙では必ず自民党、自民党議員にせっせと一票を入れていました」。これほど今の日本の政治を的確に表しているものが他に有るでしょうか。

 自民党の皆さん、貴方たちは引き算で選ばれた党・議員ですよ。どうか肝に銘じて於いて下さい。そうして野党の皆さん、政権を取るのには程遠い状況を反省して頂かねばなりません。

 しかしよくよく考えて見れば、我々に大きな責任がある。それは政権をいつでも取って代われる、即ち拮抗するもう一つの政党を生み出していないことである。私の感じでは「国民に時間をかけて育て上げようという気が無い」ことが一番の原因かも知れませんね。とすれば悪いのは政党・議員ではなく国民となります。よく言いますよね。「国民の能力程度のリ−ダしか生まれないと」と。

 紫式部は何を伝えたかったのか21回  ikekazu  2021年7月25日(日) 9:15
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(知識の栞)平安時代の結婚生活は、基本的には男が女の元に通う「通い婚」であった。夫婦が独立して住居を構える事もあったが多くはない。「源氏物語」では、光源氏が別に住む妻たちの元に通うことになっている。妻の方から光源氏を訪ねるシ−ンは一度たりともない。と言う事は、妻たちは只々待つだけで、光源氏が来なければ二人が会うことはないのだ。妻たちにとってこんな不安な事はない訳である。

 末摘花は光源氏が須磨に流謫していた2年強を含めて4年間、全く忘れ去られていた。光源氏が帰京後、花散里を訪ねて行く途中ふと思いだして末摘花を訪れた。末摘花はただただ光源氏を信じて貧しい中でひたすら光源氏を待っていたのである。光源氏は大いに感激、末摘花はその後二条東の院に引き取られ不自由なく暮らす事になった。

「明石の君」その三。此の結婚生活の形が、明石の君が光源氏のラブコ−ルに中々イエスと言わなかった理由である。即ち、明石の君はたかが受領の娘、一方光源氏は須磨へ流離した時は、無位・無冠だが、故・桐壺院の皇子、身分が違い過ぎる。今は愛してくれたとしても、将来、自分を人の数にも入れてくれないに違いない。結婚後程なく忘れられるだろう。そして世間で笑われるだろう。将来その様な悲しい思いをしたくない と思ったからなのだ。真に冷静な判断なのである。

 しかし結局、光源氏27歳と明石の君18歳は8月に結ばれ、翌年6月、明石の君に懐妊の兆し、まだ誰も知り得ないけれども、明石の君の栄光への道のりが始まることになります。光源氏は7月に帰京。

 黙々と  ikekazu  2021年7月24日(土) 10:34
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     黙々と朝起いでて
     黙々と朝餉の用意
     黙々と二人で食べ
     黙々と妻の用事を

     黙々と文句を受け
     黙々と後片付けを
     黙々と新聞に目を
     わが家の朝の風景。

     でも、
     「この黙々と」が厳しくなってきた
     歳のせいにしたくはないが
     歳のせいだ。(和)

 紫式部は何を伝えたかったのかS  ikekazu  2021年7月23日(金) 10:46
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(知識の栞)須磨は、万葉集以来、海人の塩を焼くところとして和歌に詠まれてきた歌枕であると共に、在原行平が侘しく籠り、藤原伊周が配流された土地としても有名である。なお中世の注釈書である『河海抄』は、石山寺参籠中の紫式部が琵琶湖に映える八月十五夜の月を見て「須磨」「明石」巻から書き始めたという伝説を載せている(竹内雅彦)(ちなみに琵琶湖ほとりの景勝地を選んだ近江八景。そして、瀬田川を臨む景勝地石山を名月鑑賞の最適の地と見定めていた)

「明石の君」その二。光源氏がみた夢の中で、父・桐壺院が”早く船を出してこの浦を去れ”といいます。夜が明けると明石入道が小舟で光源氏を迎えに来ます。聞くと、夢のお告げに導かれてのことらしい。二人の夢が一致したのです。暗い須磨の生活から一転「明石」という地名の通り、物語は明るい雰囲気になります。明石入道の豪邸に居宅。

 光源氏と明石入道との付き合いが進み、その中で、入道は明石の君の存在を語る。秋になり、光源氏が明石の君との逢瀬を望むが、明石の君は、”自分は受領階級の娘、自分を人の数にも入れてくれないだろう光源氏の為に、将来悲しい思いをしたくない”と思ったのだ。光源氏は手紙でアプロ−チをするが明石の君はうんと言わない。業を煮やした光源氏は8月12、13日の夜、明石の君のいる家を訪れて愛情を交わしたのでした。

 身分の事もあり控えめな性格であるが、しっかりとした信念を持ち、受領階級に似合わない気品と知性があった。光源氏はぞっこん惚れた。(明石の君18歳、光源氏27歳)。 

 偉大な病人A  ikekazu  2021年7月22日(木) 10:34
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 「糸瓜の咲て痰のつまりし仏かな」
 「おとゝひのへちまの水もとらざりき」
 「痰一斗糸瓜の水も 間にあわず」

 偉大な病人と言えば、この人を外すことはできない。正岡子規である。言うまでも無く、子規は明治を代表する俳人・歌人。珍しいのは、俳句と短歌の両方で極めた事である。両者は根本的に違うものである。前者は情景を、後者は心情をうたうものであり、両方をやる人はほとんどいない。況してや両方で極めた人は彼だけではなかろうか。

 彼は記者として日清戦争に参加したが病気で帰国。その後脊椎カリエスになり、以後世を去るまで病床にいた。冒頭の3句は彼の辞世の句である。脊椎カリエスという難病は、病原菌により脊椎が破壊されて湾曲し痛み、半身不随や寝たきりになる。また、破壊された骨が膿になり、その溜まった膿が出口を求めて皮膚に穴をあけ、体外に流れ出るという。想像を絶する悲惨さ、そして激痛を伴う病気である、彼の背中は穴だらけだったと言われる。(以上ネットより)

 彼はそんな状況下、母や妹に毎日悲鳴を上げ乍ら膿を取って貰い、世話になりながら悪態を付き、仲間を笑わせ、大食を重ね(もう吃驚する程だ)、吐き、又食べ、鎮痛剤を飲む日々。その様な中で、俳句、短歌へは執拗なまでに情熱を傾け、過去の伝統的な歌(古今和歌集などボロクソ)を退け、新しい題材で写生的な歌を生み出した。最後の3年間、押し寄せる激痛に耐え乍ら作品を生みだし、弟子を育て上げた、その強靭な精神力は何処から生み出されたのであろうか。

 顧みて、たかが「帯状疱疹」の痛さに悲鳴を上げる自分を恥じるばかり。されど痛い。

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